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Masaaki Ikemiyagi
Masaaki Ikemiyagi

序文

この記事は2018年4月に沖縄訪問の際にご本人からいただいた情報を基に書かれています。我々の取材班は沖縄空手の世界で著名な範士九段、全沖縄空手道連盟の役員である池宮城政明先生と数日一緒に過ごしました。先生とともに彼の所蔵品である貴重な書物や写真を拝見させていただいたり稽古に連れてもらい尚、弟子にもインタビューを取ることができました

記事作成に関わっていただいた皆様に感謝いたします。ご一読ください。

第一章

竜の鬚を撫で虎の尾を踏む

1987年、沖縄に果たし状が送られてきた。総合キックボクシングの2つの階級での日本チャ ンピオン、シーザー武志が沖縄空手の師範と足技、手技、投げ技、関節技ありのシュートボクシングのルールで対決をすると正式に発表した。日本の有名な空手家たちにこのことが知 らされたが誰もこの挑戦を受け立とうと思わなかった。

当時33歳だった剛柔流師範池宮城政明が受け立った。スーパーミドル級の武志に比べて池宮城先生の体重は65キロであった。ハンディキャップとしてボクシンググローブに重りをつけると話があったが結局は同じグローブが渡された。実戦では禁止だったはずの膝蹴りや投げ技も相手方がよく使っていたらしい。現在このような対決を行ったら主催者や対戦相手双方はかなり儲かっただろう。しかし当時、リングに上がる者は別のものを求めてた。

沖縄空手の師範が有名なチャンピオンの挑戦に受け立った理由は?武術としての剛柔流の特 徴は何か、時代とともにどう変化してきたのか、そして今はどのようなものなのか?このよなことを直接、池宮城先生に聞きました。

第二章

先生との出会い

先生に会うために我々は沖縄の首都また港である、那覇市に旅立ちました。たいていの港湾都市は商業や海外の品物であふれ異国への扉になります。那覇も例外ではありません。

19世紀後半に沖縄と中国の間に強い政治的な関係が築き上げられました。それに伴い多くの沖縄人が武術を学ぶため中国に行きました。結果として一部の人は自分の流派を生み出すことができました。剛柔流はその一つでした。

我々は沖縄市に着いた、ここでは著名な沖縄空手の先生の一人である剛柔流の伝統の継承者、範士九段池宮城政明先生が長年に渡り住んでいて稽古を行っている。彼は有名な八木明徳の高弟の一人であり今でも稽古を続けている。

先生は我々を家の前で出迎えてくれた。先生は2階に住み仕事をして3階には池宮城道場がある。65歳で背は高くなく体重は75キロ以下である。それでも達者な相手に勝てることが驚きである。

鍛錬された空手家にとってでも先生の稽古はとても厳しいと言われているそれと彼の突きの威力には誰もかなわず拳は石ごとく固く難なくブロックや板を壊せると聞いていた。後に先生は優しくバルコニーで盆栽を育て美味しいエビやおにぎりを作れて裁縫もできると我々は知った。その時は超人的な力を持った先生と会うことには緊張した。

先生の書斎には様々な古物, 巻物、賞や写真などが保管されていた。そこには色んな年代の表彰状、メダル、古い雑誌や新聞、アーノルド・シュワルツェネッガーのサイン入りのものもあり、沖縄空手に関する独自の研究資料もあった。先生には優しく接していただき、我々以外に数少ない人しか見ていない保管品を見せていただき、あまり好まないインタビューまでも許してくれた。

第三章

剛柔流 VS 池宮城流

剛柔流は空手の主な流派の一つであり剛と柔の技を使っている。沖縄空手の剛柔流を広めている団体の一つは全沖縄空手道連盟であり池宮城先生はそこの役員である。

沖縄空手の剛柔流は相手を 剛力で打ち柔軟に受けをする。例えて言うと習字をするとき筆で紙を触る軽さと同じように暴れている水牛の皮を剥ぎ取るイメージだろう。でも技のしなやかさは長年にわたる鍛錬のおかげでしか現れてこない。

人間の体は剛と柔を兼ね添えている。技を有効に活用するには剛に柔を使い柔には剛を使う。例えば柔らかい腹を打つときは剛である正拳を使うでも硬い頭を打つときは手の柔らかい部分を使う。

普段の生活ではいつ、だれと戦うことになるのか予測できない。そのため沖縄空手の大会には体重別階級はない。なおかつ相手を事前に調べ、戦術や弱いところを探ることはできない。これでは365日いつでも対応できるように体を保たなくてはいけないということになる。

剛柔流に基礎は型にある。先生が言うには対戦経験がなく型のみ練習していた人でも非常時には長期は鍛錬のおかげで有効に相手に対して技を使えるだろう。

池宮城先生が空手を習い始めたころは型を習う順番があったそうだ。はじめは普及型一、二を習得し徐々に難しい型を習い剛柔流の最終型、壱百零八手(スーパーリンペー)を習ったと言う。先生が言うにはこの型は五段にならない限り教えてくれなかったそうだ。

型そのものを覚えるのはね、2-3カ月で覚えます。しかしこれを実際に習得したかというと完璧ではないんです。型の妙味とかそういうものを出すためにはそれだけの年期が必要です。今、競技で子どもたちにスーパーリンペイを教えたらすぐ覚えます。しかしこれ実際に使いこなしてるかといったらただ分かるというだけです。同じ三戦(サンチン)でも白帯でやって、2-3ヶ月やってる人も20年やっている人もこれは差は出てきますね。」

昔、空手は武器としてとらえられてました。だから沖縄では質の悪い乱暴者には教えてくれませんでした。今は道場に来た者の性格は検証されません、何のために習うかも尋ねません、空手は誰でも習えます。先生が言うにはこれはいいことだ、子供たちに武術を教えれば礼儀正しく、優しく、積極的になり色々なことを学び将来それを社会貢献につなげると思っているそうです。

先生は道場の門下生に型の基本を教えるだけではなく解明もやっています。これは彼自身があみだした技の応用であり実戦で難しい状況の対応方法です。門下生はこの時を特に貴重にし先生独特の技術には池宮城流と名称まで付けてくれたそうです。

この技の多くは海外派遣の後に生まれたそうです。例えば池宮城先生が講師を務めていた国際セミナーでは大柄な相手もいました、小柄な先生は対応に困ったそうです。そこで彼は対応できるように独自の技をあみだしました。先生が使うほかの技などは剛柔流の伝統と歴史を研究していくときに作ったそうです。

池宮城先生は自分の技を道場内でしか見せてくれないその理由として彼はこう言っている「これをやると批判的な先生方も出てくるから、まぁヒットかなと思うんだけどこういうのがあるから。剛柔流の基本的なものから少し外れているところがあるからあくまでも型の解砕ね。」

先生は伝統的な剛柔流から離れたくないため 池宮城流の存在を否定し道場での身内の雑談だと言っている。

「池宮城流というものはアメリカ人生徒のローンが考え出したもの。彼は他のところで空手やってきてるから私の空手はやっぱり何か他の空手と違うということで彼が発した言葉。インドから沖縄にセミナーに来るときに池宮城流って書いて ここの領事館の人、池宮城流は見たことがないからということでビザ―が貰えなかった事があったみたいです。そういう話もあったと聞いてます。だから池宮城流は存在しません。僕が死んだ後に出るかもしれませんね。ここは剛柔流、池宮城道場!」

生徒が言うには先生の道場では昔みたいなきつい稽古が行われている。彼は稽古の一時間前に来て基礎練習をしそのあとに生徒と一緒に稽古をします。

金城悟は昔から先生の弟子です。彼は先生と稽古を30年も続けていて七段であり剛柔流も教えています。映画俳優みたいな笑顔と青年のような体格からは60歳であるとはわかりません。

金城さんは池宮城先生にあこがれていてこのようことも言ってました「我々の空手の組織で一番やっぱり小さいけどなにさせても上手。彼は私の10倍ぐらい体力があります。いざ練習したら、まあ約束組手とかあるんですけどもう壊れる、突かれたら壊れると思ってします。」

金城さんが言うには道場には海外から特にアメリカの方からよく人が来るそうです。小さいのにこのパワーはどこから出てくるのという感じでみんな不思議に思っているそうです。鍛錬の成果だと思っている人もいれば生まれ持った才能だと思う人もいる。特に先生の自由組手が見ものだという。相手が突いてきたらまず芯をぶらして相手を崩し一撃必殺で仕留めるそうだ。怖いが見ものだと彼は言う。

第四章

どうやってやんちゃな子が先生になったか

池宮城政明は子供のころから格闘技が好きだった。15?歳で八木明徳の弟子になった。その時から彼は本格的に空手を学び始めた。

八木先生は型の正しいありかただけを教えていたのではない。当時の自分のことをやんちゃな子だと言っていた池宮城氏は彼の道場で空手の哲学などを学んだ。彼はどんなときでも礼儀だしくし人にやさしく接し毎日体だけではなく精神の鍛練も必要だと学んだ。

当時の稽古は厳しかったそうだ。一時間半の稽古を月曜日から金曜日まで週5回行ていたという。それに比べ今は月水金と行われもしくは週2回しか行われない。

「昔、練習は2倍、二千倍多かった」と池宮城氏は言う。高校時代、彼は部活で空手をやりそのあと道場に行きそこでも稽古をしていた。大学でもクラブで2時間ほど稽古しそのあとまた道場でも一時間半やっていたそうだ。毎日3-4時間は練習していたことになる。現代ではそういことを想像することは難しい。今はオリンピックに出る選手でなければやらないことであろう。

池宮城政明(右下3人目)と八木先生(右下4人目)
第五章

明武館

1981年27歳 の時に池宮城先生は道場を開設した。当時、彼は五段で自分の練習場所が欲しかったそうだ。昔は誰もが道場を持てるわけではなく野原、墓場や広場などが練習場所として使われていた。道場開設は大きな成果であった。先生が言うには道場の設計は設計士と一緒にしていた。道場には色々な工夫がされている巻藁や上げたり下げたりできるサンドバッグ、振動を和らげるために作られた二重床にはゴムが仕込まれているなど。

池宮城先生の道場は「明武館」と記されている。明治の三舟の山岡鉄舟が書いた字「武を明らかにする館」の漢字を使って命名している。

池宮城家の家紋。海外の生徒が道着につけるようになり先生もつけるようになった。これは二重ご紋で王系に仕える氏族が持ていたものである。大体、侍とか士族は持ていた。

全沖縄空手道連盟の規定で一本線は錬士、二本線は教士、三本線は範士。錬士は六段、教士は七~八段、範士は九~十段ということで表記しています。

道場の開設後、池宮城先生は海外派遣でセミナーを行うようになった。練習を兼ねたセミナ ーをブラジル、オーストラリア、アメリカ、ロシア、イタリア、スペイン、フランス、ドイ ツ、イギリス、ベトナム、インドネシア、インドで行った。これらの国のいくつかに支店が設立された。一番古い支部はオーストラリアにあり35年前に設けられた。次に15年前にアメリカで設け、ロ シアでは10年前に設けた。各国には現地の指導者がいる。

あなたの国で生徒の池永正明を見つけてください

代表者

池宮城先生の目標は剛柔流を世界に広めそれを基に各国で社会貢献ができる人材を育成しそれの実現に役立つ支部のシステムの築き上げることである。

37年間、先生が病気や怪我をしていても稽古をしに道場に来る人を迎え入れている。数少ない生徒しか道場を開設しないことに彼は惜しんでいる。それでも各国で道場を開設した弟子たちや彼自身が多くの人に剛柔流のすばらしさを伝え普及に貢献してきた。

第六章

東恩納寛量から池宮城政明まで

剛柔流の祖は1853年に那覇で生まれた東恩納寛量とされている。最初は地名で名称が付けられたため那覇手とされていた。

ポートレート東恩納寛量

東恩納寛量

那覇手中興の祖

寛量の家族は大人数で元々は士族の分家であった。彼が12歳の時に父親が喧嘩で殺害され家族を代表することになった。14歳で中国に渡りルールーコウに師事されことになり彼の二階建ての家に住むことになった。朝は稽古をし昼は工場で仕事して夜はまた稽古したそうだ。最初の五年は三戦(サンチン)の練習しかしなかったと言われている。日本と中国の仲が悪くなった時期にルールーコウは寛量を沖縄に送り返さなければいけなくなった。

ポートレート宮城長順

宮城長順

東恩納先生の弟子、剛柔流の開祖

1901年、沖縄で空手は学校の教育にと入れられ多くの先生方が大人数向けの指導方法について考えるようになった。1905年に東恩納寛量は那覇市の学校で指導することになった。彼は学校の校庭で週二回、稽古を行うようになり弟子もいたそうだ。その一人が宮城長順であったのちに彼は著名な空手家になり剛柔流を命名する。宮城先生の思い出では寛量先生の稽古はとても厳しく空手をやめよとも思うほどのものだった。でも彼は学問をやめ銀行での仕事もやめ武術に没頭した。その時、寛量先生はその青年に可能性を感じ彼の育成に励んだ。

「昔、流派はなく、 首里、那覇、泊という地名で名乗っていたのです。ある時、内地の武道館で高弟である八木先生が皆さんの流派は何かと尋ねられた。沖縄に帰って宮城長順先生にこのことをといったら武備志の剛柔呑吐(ごうじゅうどんと)という言葉から剛柔流というふうになろうってこれが流派の始めだという」

寛量先生は弟子にすべての型を教えなかった。基本の三戦(サンチン)ともう一つの型はその弟子に最もふさわしいものを教えていた。宮城氏には壱百零八手(スーパーリンペー)を教えた。

ポートレート八木明徳

八木明徳

宮城長順の高弟

それと寛量先生は個人稽古を行いそこで宮城氏に武術の秘密を伝承していた。

宮城先生は著名で多くの人が彼の弟子になりたがっていたが先生自身は10名の人間しか弟子とは思わなかった、高弟とされているのは八木明徳、宮里栄一、比嘉世幸、、山口剛玄。

「伝説では宮城長順は先生方から伝わったものをすべて八木明徳に伝えた。その時、宮城先生は戦争行って皆なくなったらいかんだろうと言ったそうだ。 まあ正しいかは検証してませんので否定も肯定も出来ません。」

1940年に沖縄空手の著名な先生方が委員を務める沖縄空手道専門委員会が設けられた。彼らに課せられた課題は学校で教えることができる型の開発だった。彼らの目標は兵士を育成することであり空手は肉体の鍛錬に適していた。その際に空手の精神鍛練も重要な役割を果たしていた。その際に普及型が現れ今でも学校で練習されることがある。

それでも空手には秘伝や奥義があった。誰にでも伝授されるわけではなかった。

第二次世界大戦から沖縄空手は大打撃を受けた。1945年10月にアメリカは沖縄を侵略した。爆撃の嵐によって剛柔流発祥の地は焼き尽くされた墓場になった。多くの著名な先生方や弟子は死亡した。貴重な書物や書庫は燃えてしまった。

沖縄は長期にわたりこのダメージから復旧することになり戦後の厳しい時代に入っていった。

ポートレート池宮城政明

池宮城政明

八木明徳の弟子

でも空手は忘れ去られなかった。生き残った先生たちは自分の知識を新しい弟子に伝え剛柔流は再び発展していった。空手は無形文化財になり沖縄の多くの学校で教えられるようになった。

世界での空手の普及について池宮城先生は世界のリーダー的人物や大統領なども空手をしていると言っていた。日本では官房長官とか沖縄県の副知事など。先生が言うにはリーダーのそういう態度が多くの人に空手を始めてもらうきっかけになるであろう。

第七章

人に打たれず人を打たず

剛柔流の特徴として先生があげているもの一つは小柄な人でも強くなれるというものだ。多くの沖縄人は生まれつきから強い肉体と力がなくでも頑張り屋である。与えられなかったものを自らの鍛錬で手にしていく。

「いい家空手は継続して練習することが一番だというふうに思っています。努力するのも一つの能力だ。生まれた持った能力ではなくて頑張る能力があるからできる。一生懸命に真面目に練習するところではよい弟子も育つ。」

剛柔流の開祖宮城長順の教えでは「人に打たれず人を打たず、ことなきことを元とすることなりと」。これはいかなる時でも最後まで争い避けるという意味が含まれている。池宮城先生が言うには「誰かを好きなら言いなさい、誰かを嫌うなら黙っていなさい」。

池宮城先生は内地で多くの大会に参加し海外から来る者の相手もしていた。沖縄の若者の間では対戦は普通のものであり池宮城先生はそれを一番に受け立っていた。若くして凄腕の空手家と称された。現地の大会に彼が参加すると聞いただけで降りる人がでるほどだった。

リングで無敗でありながら先生は喧嘩などは避け絡まれないようにしていた。酒が入った沖縄人や観光客が空手をやっていると聞くと絡んでくるという。小柄であまり肉体がなさそうな雰囲気に彼らは騙されていた。先生は少し時間がたってその絡んできた人を街中で見かけると道場の練習に誘って巻藁を突いたと言う。絡んできた人は黙って家に帰るばかり。先生が言うには戦わずして勝った。

「争いを避けて平穏にするということが我々、剛柔流、宮城長順先生の遺訓でありますのでそれをすべきだろうというふうに思っております。 空手は攻撃するものじゃなく、空手に先手なし。防御が最大の極意だというふうに思っております。まずこの空手は文化そのもの、その中に護身術が含まれているという考え方です。

集中力とバランスを保つために池宮城先生は習字をやっています。八木先生は自分の考えや教えを書き出していたそうだ。その影響で池宮城先生も空手の哲学にあるような言葉が好きになった。先生の好きなものは「奥妙は練習にあると」(八木道場に飾られてた扁額)、「天佑神助」、「寂然不動」などである。

第八章

沖縄の真の精神を残す

現在の空手界が直面している問題の中に武術にあまり関係ない競技空手が伝統空手を押し出しているというものがある。池宮城先生は競技空手を敵視せず問題ではないと思っている。この二つを車の両輪に例えてる。両方とも一緒に車の両輪ごとく進めるのが一番いいかなというふうに思いるそうだ。

先生が言うには競技空手は一過性で若い時にしかできない。一定の年齢を過ぎると競技大会に出るのは非常に難しい。そしたら伝統空手の方に戻ってその型の妙味とか深さとかそういうものをまた探ることになるだろう。

空手には色々なすばらしさがあります。池宮城先生と彼の同僚たちは空手は文化であり武術であると考えている。競技としてとらえオリンピックなどでいい成果を残すために練習する人もいる。競技というのは空手を始める動機に適している、練習を重ね精神面でのすばらしさも後に理解するだろう先生は思っている。

「たまたま空手をやって格闘技やている人が総合格闘技に行くということはありますけれども。私にも弟子にもそいうのに移動した人はいます。心立って本格的に伝統空手に戻った人もいますが残念ながらそこに残り終わった人もいます。」

でも先生は総合格闘技を敵視している。彼が言うにはこれはスポーツでもなく演武を兼ねたショーだ。

基本である型を習わない空手は空手ではないと先生は言っていました。彼が言うには空手をやっていて一番いけないことは基礎になる型をマスターせず独自の技を作り出そうということである。

もう一つの空手に関する勘違いは型をどれだけ練習していても強くなれない。そう思う人は剛柔流を武術として疑わしく思う人である。池宮城先生はそいう人は修行不足か間違った修行をしている人だと言っていた。

「空手には終わりはない。生きてる間ずっと、体が起きられるかぎり私は練習したいと思います。生涯は空手である。私の最終目標は剛柔流を世界に普及、発展させることです。」

"沖縄空手も時代には逆らえません。多くの道場では練習方法は変化し空手の哲学は変えられ基礎であったものは忘れられつつある。でも 沖縄伝統空手の歴史はまだ終わっていません。流祖の系統である著名な池宮城先生みたいな方が毎日道場に出向かう限り沖縄の精神は消えません。先生の弟子たちは世界各国で道場を開設しています。彼らは剛柔流が新しい門下生の数を増やし空手に興味がある人には最新の情報 を発信していきたいと思っています。"